和歌山県(田辺藩、紀州藩)の食文化
調査班:渡邊日佳流、渡来直生、鈴木真也 調査日:2018年9月11-12日
1. 風土・歴史 次へ 目次
江戸幕府成立以後は紀州藩、田辺藩、新宮藩が置かれ統治されてきました。現在でも、当時の藩統治の影響は未だに残されています。その一例として、江戸時代の1619年に田辺藩藩主の安藤帯刀が始めた梅栽培が挙げられます。彼は山がちな土地をふまえて、稲作に向く地域では新田の開発を、向かない地域では梅の栽培へと転換しました。現在でも農業が主要な産業になっています。
縦に長い和歌山県は、紀北と紀南で大きく気候が異なっています。紀北は日照時間が長く、降水量も少ない、いわゆる瀬戸内気候区に属します4。対照的に、紀南では全体的に温暖かつ雨量も多く、それを活かした柑橘類の栽培が盛んです。県全体では農家の軒数は減少する傾向にありますが、専業農家の戸数は維持しています。特に果実に従事する農家が62%(全国平均は8.9%)と多く、みかん(44%)、梅(16%)、柿(14%)らが盛んです。これらはいずれも生産量単位で全国1位になっています。特に梅は全国生産量の65%を占め、梅干の支出総額も日本一です。
2.調査した郷土食
2.1. 金山寺味噌 前へ 次へ 目次
金山寺味噌はその名の通り味噌の一種で、紀州では有名な特産品です。私たちは金山寺味噌がどのような味噌であるのかを調査するため和歌山県の湯浅町にある玉井醤本舗大坂屋三右衛門店(大坂屋)へと訪問させていただきました。大坂屋は創業400年の老舗であり、金山寺味噌販売店の中でも創業の最も古いお店です。今回、金山寺味噌について伺ったのは、十六代目店主である北村守さんです。北村さんによると、大坂屋の金山寺味噌の製法は一子相伝でのみ受け継がれており、その味は販売当初から守り続けられているとのことです。
大坂屋の金山寺味噌の作り方を北村さんに伺いました。はじめに、米と麦・大豆からそれぞれ米麹と麦・大豆麹を作ります。大豆は麹をつける工程に入る前に、鍋で炒って、臼で粗挽きといった下ごしらえをします。次に、塩と夏野菜(ナス、ウリ、シソ、ショウガ)を混ぜ合わせ発酵へと進むことで、普通の味噌のようなペースト状にはならず、写真のようにゴロゴロと具材が混ざりあった金山寺味噌が完成します。仕込みや発酵は、野菜の時期や麹の成長のために、夏場に全て行うそうです。詳しい製法については企業秘密とのことですが、大坂屋の金山寺味噌作りは全て人の手で行われているそうです。夏野菜も全て手作業でカットします。ナスは、賀茂茄子という品種で、トマトのような形をしています。一般的なナスに比べて、身がしっかりとしており、発酵過程でドロドロに溶けないため、金山寺味噌の大事な食感を生むことができるそうです。実際に私たちも味見をさせていただきました。普通の味噌と比較して大豆や麦が残っており、ナスとウリがパリパリとした食感で味わえました。野菜自体にも、味噌の味が染み渡っているため、塩味と旨味がしっかりと付いていました。現在では、他にも金山寺味噌を販売する店があります。他の店舗と大きく異なる点は、砂糖などの甘味料を入れずに作るところだそうです。
この金山寺味噌の起源について北村さんに伺ったところ、法燈国師が日本で広めたという話が大坂屋では代々言い伝えられているそうです。法燈国師は、鎌倉時代1249年に宋(中国)に渡り、金山寺味噌を和歌山県由良町にある開山・興国寺に持ち帰りました。交通の便がよく水質も味噌醤油つくりに適していた湯浅町に広く伝えられ、地元の一般の家庭でよく作られていたそうです。さらに、金山寺味噌は、大豆を原料とした醤油の原点であるとも伝えられているようです。北村さんによると、大坂屋の金山寺味噌から生まれたたまり醤油が起源であると言い伝えられており、玉井醤本舗大坂屋三右衛門店の「醤」の字から醤油の「醤」が由来しているという説もあるそうです。
紀州徳川家と玉井醤本舗大坂屋三右衛門店には深い関係がありました。各家庭でも独自に金山寺味噌を作る文化が芽生えた後、玉井醤本舗大坂屋三右衛門店が先駆けで販売を開始したそうです。第十代紀州藩主である德川治寶が口にし、その味を大層気に入り、「金山寺味噌を販売するのはお前のところだけにせい」、「製法は変えてはならない」、「作るときの塩の分量は外にもらしてはならない」と言ったそうです。さらに治寶は、その賞賛の証として掛け軸を玉井醤本舗へと贈呈しています。掛け軸には玉井醤本舗の店のトレードマークである井戸の水の雫の絵が描かれています。この井戸水が大変重要らしく、初代店主である左右衛門がいくつもの井戸を掘って厳選したものだそうです。金山寺味噌を販売していたのは江戸時代まで玉井醤本舗大坂屋三右衛門店だけだったとのことです。
<調査協力>
玉井醤本舗大坂屋三右衛門店
和歌山県有田郡湯浅町湯浅531
http://www.kinzanjimiso.jp/member/osakaya.html
2.2. 梅干 前へ 次へ 目次
みなさんは梅干といえばどんなイメージをもっているでしょうか。赤く、見ているだけで唾液が出てくるような酸っぱさを想像する人が多いでしょう。梅干は漬物の一種ですが、他の漬物と違ってその酸っぱさは梅の果実自身がもつ有機酸由来です。漬物といえば微生物発酵しているものが多いですが、梅干は逆に微生物の影響を極力排除しています。
梅干は完熟した梅の果実を20%程度の塩分で1ヶ月以上塩漬けし、数日間天日干しすることによって作られます。天日干しすることによって梅干のもつ成分が凝縮されます。天日干しの後、再び梅酢(梅の果実を塩漬けしたときにできる液体)に戻して寝かせることで角が取れてまろやかになります。この工程で作られたものを白干梅(しらぼしうめ)といいます。
白干梅は非常に塩分や酸分が多く、そのままでは一粒食べきることも難しいです。実は、私たちがふだん梅干だと思って食べているものは、白干梅ではなく、調味梅干かも知れません。調味梅干は、白干梅を減塩し、鰹節・昆布・はちみつなどで食べやすい味つけにしたものです。これならば大粒の梅であっても美味しく食べきることができます。
私たちは和歌山県田辺市にある中田食品(なかたしょくひん)株式会社に、梅干の文化について取材に行きました。田辺市を歩いていると、斜面のところどころに小さな梅畑がぽつぽつと見られます。
梅は中国が原産地で、2000年ほど前に日本に入ってきたとされています。文化的には「古事記」や「日本書紀」には梅の記述は全く登場せず、万葉集から見られるようになります。もともと「花」といえば桜ではなく梅の花のことで、観賞用として植えられることが多かったようです。梅の果実を現在の梅干のように塩漬にして食べるようになったのは奈良・平安時代頃からですが、この頃は貴族のみが口にしていた程度であったと推測されています。それから戦国時代までは疲労回復や、唾液で口を潤すための軍需品として重用されました。庶民の間で一般的に食されるようになったのは江戸時代初期頃からで、この頃は各家庭で梅の果実を漬けていたと思われます。
梅は北海道から沖縄まで日本全国で栽培することができます。現在では梅の生産量は和歌山県が全国でトップシェアを誇りますが、ここまで生産量が拡大したのにはいくつかの要因がありました。大きく分けると、一つは南高梅の誕生、もう一つは調味梅干の誕生です。
江戸時代初期、南部(みなべ、現和歌山県みなべ町)の農民は米の収穫が悪く、重い年貢に苦しんでいました。そこで米の栽培に適さないやせ地に梅を植えさせ、年貢をかけない政策が施されました。これにより規模は大きくありませんが、梅を栽培する基礎が築かれました。この頃の梅は現在のような大粒のものではありませんでしたが、ヤブ梅と呼ばれ、農民にありがたがられました。
明治時代になると、上南部(かみみなべ)村の高田貞楠(たかださだぐす)という人物が、梅畑を作るために品種が無造作に交雑した梅の苗を近所の農家から60本貰い受け、栽培しました。その内の一本に、たくさんの果実をつける株がありました。種が小さく果肉が多く、表面に紅がかかり黄色く完熟し、雑味が少なく香りもよい果実をつけるこの品種は「高田梅」と名付けられました。高田梅はどの品種が交配したかわからないため、接ぎ木で殖やすしか方法がありません。しばらく門外不出となっていた高田梅ですが、1950年に発足した選定会で最優良品種に認定され、このときに南部と高田の頭文字を取って「南高梅(なんこううめ)」という名付けになりました。
現在和歌山県田辺市に本社を置く中田食品株式会社は、1897年に和歌山県西牟婁郡(にしむろぐん)下秋津村(しもあきづむら)で創業した中田商店を前身にもちます。中田商店は肥料の販売など農業に関わるさまざまな事業を行っていた商店でしたが、1950年頃に梅干加工業を専業とします。しかしその矢先、1960年頃にかけて梅の不作があり、梅の果実が足りない状況に陥りました。そこで、1961年に台湾から梅の果実の輸入をはじめたのですが、台湾の梅は日本の梅と品種が異なり、皮が厚く小ぶりで、日本の梅とは大きく異なっていました。なんとか商品として出そうと考えた結果生まれたのが、鰹節・昆布・しょうゆなどで食べやすい味つけにした調味梅干「梅ぼし田舎漬」です。怪我の功名か、この味が関東圏を中心に口コミで人気が広まり、新たな需要を生み出しました。
梅の生産量のグラフを見ると、調味梅干の開発から、和歌山県の生産量が従来の全国生産量に上乗せされたような形をしています。文字通り調味梅干が新たな需要となったのです。美味しい調味梅干を更に美味しくしようということで、和歌山県産で最高の品種である南高梅へと転換していきました。結果として、現地の農業を活性化し、現在では和歌山県が全国の7割弱のシェアに到達しています。最初1本しかなかった高田梅(南高梅)も、接ぎ木に接ぎ木を重ね、約200万本にまで到達したそうです。しかも、梅の生産地は、和歌山県の中でも中田食品がある田辺市、隣のみなべ町の半径20km圏内でほとんどを占め、梅産業の隆盛が企業努力の賜物であることがわかります。
今はあまり見なくなりましたが、昔は白飯に梅干を一粒乗せた日の丸弁当というものがありました。塩分濃度の高い白干梅は、ご飯と一緒に少しの量を食べることくらいしかできません。日本人の米の消費量の減少に伴い、白干梅の消費量も減少しています。伝統食品を伝統のままにしておけば、梅干はどんどん廃れていってしまうかも知れません。しかし、調味梅干の誕生により、私たちは梅干をたくさん食べるようになりました。
「梅干は塩辛くてなんぼだ、甘い調味梅干なんて偽物だという声もある」
と中田食品企画開発課の小串さんは語ります。
「食べて美味しいから、もっと美味しいものを求めるようになる。悪貨が良貨を駆逐しなかったんですよ」
調味梅干は、伝統的な梅干とは異なります。しかし、食というものは美味しくて需要があるからこそ、本当の伝統として食文化の中に根付くことができます。調味梅干の需要によって、品質の良い梅の果実がたくさん生産できるようになり、結果として完熟した南高梅を使用した美味しい白干梅も食べられるようになりました。より良いものを生み出すということは、伝統を守ることにほかならないのです。梅干は時代とともに少しずつ姿を変え、これからも身近な日本食として私たちの生活を支えてくれることでしょう。
<調査協力>
中田食品株式会社
和歌山県田辺市下三栖1475
http://www.nakatafoods.co.jp
2.3. ぼうり 前へ 次へ 目次
ぼうりとは、現在の和歌山県田辺市大塔(おおとう)地区の小川集落に伝わる里芋の親芋を使った行事食です。この食品は、熊野信仰や山村文化と深い関わりをもっています。
和歌山県を語る際に欠かせない場所として熊野本宮大社があります。明治時代の廃仏毀釈運動によりその勢いは失われてしまいましたが、日本古来の古神道による山岳信仰と中国から伝来した仏教が混ざりあった修験道は文化的に重要な立ち位置を占めています。神仏混合の神々として祀られる者には牛頭天王や天狗といった現代でも耳にしたことのあるものたちを挙げることができます。歴代の天皇や上皇は聖地として熊野に詣で、この影響もあり熊野三山は多くの山伏たちが訪れる場所となってきました。建武の新政で有名な後醍醐天皇の皇子、大塔宮 護良親王(だいとうみや もりよししんのう)も山伏として熊野を訪れた一人です。ただし、それは修行のためではなく、逃避行としてのものでした。
建武の新政は、鎌倉時代と室町時代の間に当時の貴族が実権を武士から取り戻そうとした政策として知られています。当時の幕府からすれば、貴族によるクーデターとなります。後醍醐天皇の計画は幕府側に漏れてしまい、現在の京都府笠置山の拠点を落とされた大塔宮は、熊野へ落ち延びました。この後に大塔宮は熊野地域の豪族の協力を得て京都に帰還し、建武の新政の成功へ大きく貢献します(左図: 護良親王出陣図5)。この活躍は日本の古典物語である「太平記」、特に熊野へ落ち延びたことは第五巻の「熊野落ち」で詳しく記されています6。熊野への逃避行における大塔宮の足跡は、現代にも幾つも残されています。
● 海南市で大野十番頭集(おおのじゅうばんとしゅう)に匿われたこと7
● 田辺市大塔村に残る、側近として仕えた平賀三郎国綱の墓8
● 大塔宮を助けた豪族が建てたと伝わる東光寺と住んでいた屋敷跡9
● その豪族が祀られる花知神社と見初められた娘が祀られる骨置神社9,10
● 大塔宮を助けた地域として街名に残る五條市大塔(おおとう)地区11
今回取材に伺った田辺市の大塔地区も、大塔宮にその名前を由来する地域です12。この地区の小川集落には、ぼうりの始まりとなる「餅つかぬ里」という民話が次のよう伝わっています。
正午過ぎのことだ。ザクリザクリ雪を分けて二人の山伏がやってきた。若い方が、
「物申す。右左右衛門宅でござるか」 「へい」
「別に用はないが、お前は弓矢が上手だと聞いたので……」
といいながら、床の間に飾ってある弓矢をながめた。
「万一のことがあれば、いくさに出るのだろうのう」
右左右衛門は、年の暮れに聞いたシシ(しか)買いのうわさを思い出していた。
(これはきっと、わしら猟師をかり集めて、大塔山にしのんでおられる護良親王を討てという鎌倉方のまわし者に違いない)
「めっそうな、いくさなどできやしません。イノシシやサルは撃ちますが、いくさの話など聞くだけで身がちぢみます。そんな話は止めてください」
「そうか!では恐れ入るが茶を一ぱい…」
「あいにくおいて、こざらん」
「では何か食べ物を少しめぐんでくれないか、大変腹がへっているので……」
「何もござらぬ」
「正月の餅でもいい」
「みな食べてしもうて一つもござらぬ」
「仕方がない。では、お邪魔申した」
そういって立ち去った。それから半日ほどたって、弓矢を持った武士の一団がやってきた。
「さっき山伏姿の者が通らなかったか」
「通りました。もう四、五里も先に行っているでしょう。あっ!あなたは!」
武士は暮れに来たシシ買いであった。
「あの山伏姿のお方は、大塔の宮様でござる。われらはおあとをしたって、やってきたのだ。さらば!」
と、かけ去った。
「待って下さいッ!」
右左衛門は、はだしのままで表へ飛び出し、雪の上にペタンと坐った。
「もったいないことを……。お許し下さい。宮様とも知らず、餅はないなどとうそをつきました。」
右左衛門は狂人のようになって、残っていた餅を川へ捨てた。
「これからは子々孫々まで、決して餅をつきません。許して下さい」
というと弓矢をとってあとを追って行った。その後、この村では正月になっても餅をつかなかった。
食べ物を得ることができなかった大塔宮は水を飲んで空腹を紛らわしたそうで、現在でもその場所が水呑峠という名前で伝わっています14。これ以降、この村では正月に餅を食べることを禁じ、代わりに里芋の親芋を炊いたものを食べるようになりました。この料理をぼうりといいます。大塔宮が落ち延びたのは1331年のことですが、なんと驚くべきことに餅なし正月の風習は約600年間続きます。1935年7月25日に大塔宮の600年記念祭が京都大覚寺で開催された際に、600個の粟餅が奉納され願解きが成され、以降餅を食べることが可能となりました。
ぼうりについての非常に興味深い伝説は、さまざまな媒体で注目されてきました15–20。
今回の取材では、これまでの調査に加えて山村文化におけるぼうりの立ち位置と継承される伝統に注目しました。田辺市市役所大塔行政局から小川集落に在住する宮越さんを紹介していただきました。
宮越さんからは小川集落とぼうりの深い関係を伺うことができました。
小川集落は深い山奥にある山村です。ぼうりはこの村で作られている里芋から作られます。集落の主な農産物には里芋、こんにゃく芋、つくねいも(自然薯)やらっきょうといった作物が挙げられました。更に大塔宮が欲したという餅も、米餅ではなく粟餅だったそうです。1935年の記念祭で奉納した餅も粟餅だったそうで、当時は山の畑で栽培していたと伺いました。これらの作物は平地の稲作中心となる農村とは全く異なるものです。食材の観点からも、当時から独自の山村文化が営まれていたことが推測されます。栽培も昔から伝わる完全有機栽培で行われているそうです。
山村の伝統は、ぼうりの味の面でも現れていました。これまでの調査から、ぼうりについてのさまざまな調理方法が明らかになっていますが、宮越さんからは里芋、塩、しょうゆを使うものを教えていただきました。最近ではみりんを少しだけ入れるそうですが、出汁用の材料やみりんは使わないそうです。あくまで素材の味を食べるものだと伺いました。市役所の方から頂いた別の家庭での資料でも、甘くしてはいけないと記述があります。
ぼうりはもともと正月に食べるものですが、一般的に贅沢をする印象とは全く逆の料理ということが分かります。大塔宮への不敬を悔み、忘れないようにあえて正月に粗食にする文化が垣間見えました。また600年記念祭の直後も餅を食べず、実際には戦後数年が経過してからようやく食べるようになったことも宮越さんから伺いました。小川集落にとって、ぼうりの伝統が正月という大きな行事にも影響を及ぼし続けたということがわかります。更にぼうりが餅(=鏡餅)の代替という点は、実際に食している宮越さんの話や頂いた写真から強く印象付けられます。ぼうりが雑煮用の椀に盛られる点の他にも、神酒や串柿、栗ご飯、昆布とレンコンの煮物、そして蜜柑と共に食されている点も正月らしい一面です。食器も祝い箸を使って、割りながら食べます。一方で数の子のような海産物は見受けられませんでした。この点も山村が沿岸部とは違う文化をもっていたことを匂わせます。
田辺市役所から頂いた資料に基づくぼうりの大まかな調理工程は次のようになります。
- 里芋(セレベス)を4月に植える(こまめな水やりが大事)
- だいたい12月に収穫する(高さ15cmほどの親芋が標準)
- 芋は洗った後に3~5日ほど干す
- 大型の鍋に水を2/3、塩、しょうゆ、みりん、里芋を入れ、一日炊く(弱~中火)
- 一晩寝かせて味を染み込ませる
- 更に一日炊く
- 盛り付けて完成
<調査協力>
宮越明治 様
和歌山県田辺市大塔地区小川集落
田辺市役所 大塔行政局 産業建設課
和歌山県田辺市鮎川2567-1
3. 最後に 前へ 目次
参考資料
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- 熊野本宮大社. 5分でわかる熊野本宮大社 – 熊野本宮大社 | 公式サイト. Available at: http://www.hongutaisha.jp/digest/. (Accessed: 20th September 2018)
- 佐藤信, 五味文彦, 高埜利彦 & 鳥海靖. 詳説日本史研究. (2017).
- 和歌山県の特徴【ほんまもん体験】. Available at: https://www.wakayama-kanko.or.jp/taiken/syugaku/city_info/index.html. (Accessed: 20th September 2018)
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- 太平記: 40巻剱巻1巻. (1697).
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