大分県(別府・杵築・臼杵藩)の食文化
調査班:大貫、吉田 調査日:2017年3月16 – 17日
1. 風土・歴史 次へ 目次
別府(幕府直轄地)
別府を湯治場として拓いたのは、鎌倉時代の僧侶、一遍上人だといわれています。古くから湯治場として利用されてきた別府には、温泉法によって定められている10種類の泉質のうち、7種類が湧出しています。これほど多種類の温泉が出てくる温泉地は珍しく、日本では別府のみです。温泉地として全国的に有名な別府ですが、別府市観光協会の方によると、観光地として栄え始めたのは第二次世界大戦後からだそうです。戦後、GHQが占領していた時期があり、GHQの基地があったために異国文化がどんどん流入したそうです。それを契機として、別府はハイカラな街として栄え、今の観光名所となった別府が出来上がったのです。
国東(杵築藩)
国東半島は九州と本州・四国をつなぐ航路上にあり、古くから海上交通の要所として栄えました。国東半島の中央には両子山、文殊山、伊美山があり、それらの山々を中心とする放射谷が数多く存在し、その谷ごとに集落も形成されました。そうした集落は山によって分断されていたため、独自の文化圏が形成されるにいたりました。また国東は八幡信仰と仏教が混交した「神仏習合」の発祥の地でもあります。その起源は720年の隼人の反乱にまでさかのぼります。全国に約4万4千余りある八幡社の総本社の宇佐神宮が国東半島の北西部にあります。国東では元々、神羅万象に神を感じる八幡神を信仰する八幡信仰が中心でした。しかし、隼人の反乱においての殺生の罪を悔いた八幡神が、当時、外来の宗教であった仏教に救いを求めたことをきっかけに「神仏習合」の文化が生まれます。「八幡信仰と仏教が一つに調和した神仏習合の大らかな思想は、山や森、木々や巨岩を敬う国東半島の豊かな地だからこそ、生まれ、受け継がれた文化だとも言えるでしょう。」(西の関HPより)
臼杵(臼杵藩)
戦国時代は大友宗麟がこの地を治めており、港が栄え外交の盛んな土地でした。江戸時代、美濃(現在の岐阜県)から稲葉氏が国替えで臼杵にやってきて臼杵藩となりました。大友宗麟の時代から港や海運が整備されていたため、船を使って物資の輸送を行なっていました。また、江戸時代後半、臼杵藩は質素倹約の精神が広く徹底されており、華美なものが禁止されていました。当時の様子を表すものとして、紙の雛人形が現代に受け継がれています。
(大貫・吉田)
2.1. 地獄蒸し(別府) 前へ 次へ 目次
温泉の蒸気で食材を蒸しあげる料理です。温泉に含まれる塩化ナトリウムで自然と食材に塩気がつき、うまみを引き立ててくれます。野菜はアクがとれて野菜本来の旨みが増します。魚介類は生臭さが消え、おいしくいただくことができます。食材によって蒸しあがるまでの時間がちがうため、おいしく食べるためには出来上がった食材から順々にちょっとずつ食べていくのがよいと言われています。
(吉田)
<調査協力>
別府市観光協会
大分県別府市上野口町1-15
http://kyokai.beppu-navi.jp/
2.2. 日本酒(国東) 前へ 次へ 目次
国東市を代表するブランド「西の関」を醸造する萱島酒造に伺いました。明治20年、萱島酒造の二代目が西日本を代表する日本酒にしようと、当時、相撲の番付で最も位の高かった「大関」から銘を打たれたのが「西の関」です。
萱島酒造では酒蔵の見学をさせていただきました。酒蔵は木造建てとなっており、国の登録有形文化財にも指定されています。そんな酒蔵では大正に建てられた酒蔵ならではの工夫が詰まっていました。
例えば、左の写真に写っているのは二階建ての酵母を培養する酛場というところです。写真からもわかるように、なんと二階の酛場の床には四角い穴があるのです。話を伺うと、この穴は麹を下の階に落とすための穴だったそうです。ほかにも、一階から二階へものを運び込むための木製の滑車があったりと、工夫が詰まった酒蔵となっていました。
左の写真は仕込み蔵のタンクの写真です。タンクの中に見える白いものがもろみです。ここでは醸造日数の違うタンクを数個、見せていただき、もろみが日を追うごとに変化している様子を確認しました。
仕込みの際には温度管理が重要であるため、逐一、温度をチェックしているそうです。この温度管理は蔵人がこれまでの仕込みのデータに基づきながら行っています。しかし、仕込みに関するデータはあるものの、やはり人間の感覚の方が鋭いため、最終的な温度管理の判断は人間の感覚が優先されるのだそうです。
「西の関」は地域の人に愛される地酒を目指して、時代に流されることなく手造りされています。国東で獲れる海の幸にあう地酒を求めて、今の「西の関」の味が出来上がりました。味付けが濃いと言われる国東地方の料理に合うように、うまみが強くでるように仕上げているとのことでした。少し試飲させていただきましたが、口当たりが良く、丸みのある味でおいしくいただきました。
(吉田)
<調査協力>
萱島酒造株式会社
大分県国東市国東町綱井392-1
http://www.nishinoseki.com/
2.3. 味噌(臼杵) 前へ 次へ 目次
臼杵味噌の歴史は古く、稲葉氏が国替えになった時に稲葉の家臣だった可兒氏が臼杵に味噌産業を持ってきた所から始まっています。九州と言いますと麦の淡色系味噌のイメージが強いですが、現在の大分県では麦と米の合わせの淡色系味噌が主流です。
大分県の味噌を知るために、二社に伺いました。1社目は醤油味噌大手のフンドーキン醤油、2社目は江戸時代、臼杵に味噌文化を持ち込んだというカニ醤油です。
一般的な味噌作りの方法は以下の通りですが、各社でそれぞれこだわりを持って生産していました。
1.大豆、米、麦を入荷
2.大豆を洗う むす 潰す
3.米、麦を蒸す 種麹と混ぜる 麹をつくる
4.大豆、麹、塩を混ぜて仕込む
5.発酵させる
6.製品化する
フンドーキン醤油では九州地方で人気のある甘い淡色系味噌を作るために様々な工夫をしていました。白さと甘さを追求して選び抜かれた大豆を使い、大豆を機械で高温高圧、短時間で蒸し上げることでその特徴を十分に生かせるような加工をしています。また、甘さにこだわった味噌を作るために、通常の三倍以上の量の麹を使うなどの工夫がされています。
創立当初からの変わらぬ日本家屋の店構えが目を引くカニ醤油では全ての工程を昔ながらの手作業で行っており、一品ものの商品を扱っていました。カニ醤油ならではの特徴としては麹蓋が一畳ほどもあることが挙げられます。フンドーキン醤油と同じように淡色系味噌を作られていましたが、カニ醤油では手作りだからこそ出てくる、季節ごとの味噌の色の変化を大切にしているそうです。
二社に共通していたことは、味噌作りではそれに使う大豆や麦、米の生産地よりも、どのようにして麹をつくり発酵させていくかという作りの方が大切だということでした。
ところで、このように現在では白さにこだわった合わせ味噌を生産している臼杵ですが、江戸時代には麦の赤味噌が家庭で使われていたといいます。交通の発達していない昔はこの地で取れる麦を麹に使うほかありませんでした。しかし近年、世界中のどこからでも穀物を輸入できるようになり、合わせ味噌へと人気が移り変わったのではないかと思います。また、大分県の中でも北は赤、南は淡色という話も伺いました。人々の移動が活発化した現在、南から人口が流入した影響で淡色系味噌文化になったのではないかとも思いました。
(大貫)
<調査協力>
フンドーキン醤油株式会社
大分県臼杵市大字臼杵501
http://www.fundokin.co.jp
カニ醤油合資会社
大分県臼杵市大字218番地
http://kagiya-1600.com
2.4. その他の郷土食 前へ 次へ 目次
臼杵の伝統料理として、臼杵の武家で食べられていたものをご紹介いただきました。今では白さにこだわった淡色系味噌が人気を博していますが、江戸時代に食べられていた味噌は赤色麦味噌だったそうです。一つ一つ手間暇をかけて作られていて、上品で美味しい料理ばかりでした。
黄飯かやく
クチナシで色付けしたご飯と、大根や人参を煮た「かやく」を一緒に食べる習慣があるそうです。黄飯はキリシタン大名で交易に力を入れていた大友宗麟がパエリアを真似て作ったという説があります。かやくをご飯にかけて食べることもあるそうです。
胡麻豆腐
もちもちプルプルの食感が特徴の胡麻豆腐です。しいたけの入った赤味噌のあんかけでいただきました。しいたけは大分の特産物の一つでもあります。
卵黄の味噌漬け
卵を赤い麦味噌に漬けて作られる料理です。黄身はねっとりとした食感になっていました。
淡雪
祝い事で出すメレンゲを使って作ったお菓子です。卵黄の味噌漬けで使わなかった卵白をここに使うのかもしれません。
漬物
味噌を使った漬物で、鯛味噌、仏手柑の味噌漬け、ちりめんじゃこを頂きました。少し濃い味付けでご飯が進みました。
きらすまめし
「きらす」はおから、「まめし」はまぶすの意味だそうです。刺身におからがまぶしてある小鉢でした。臼杵藩時代の質素倹約の精神に基づいた、おからを使った伝統料理だそうです。
味噌汁
赤麦味噌を使った味噌汁でした。今の家庭では淡色系味噌が主流ですが、昔は赤味噌で味噌汁も使っていたそうです。中には魚のすり身が入っており、よく出汁の効いた一品でした。
豆腐の味噌漬け
豆腐を味噌に漬け込んだだけのシンプルな料理、味は濃厚でチーズのようで、食べていて不思議な感じがしました。
(大貫・吉田)
<調査協力>
小手川商店
大分県臼杵市臼杵浜町1組
http://www.fundokin.co.jp
3. 最後に 前へ 目次
特定の地域の食品における、今に至るまでの経緯や製造過程について、深く考えることはありませんでした。しかし今回、調査をしたことでその食品に対する職人さんの「こだわり」が感じられました。例えば、淡色味噌を作るため、大豆の産地から蒸す時間にいたるまで様々なことを考え抜いて作りあげられていることがわかりました。私たちの食卓に上るような食品がこういった経緯で作られているとは思っていませんでした。また今回、調査という形で大分を訪問することになり、大分の様々な魅力に気づかされました。大分の周防灘や伊予灘の海産物は絶品でしたし、別府の温泉郷は圧巻のスケールでした。食文化調査ではなく、今度は大分を満喫する旅行として、もう一度大分を訪れたいと思いました。フンドーキン醤油株式会社加藤様には臼杵の伝統料理をご紹介いただき、臼杵の食文化を知るうえで大変勉強になりました。
今回の調査では様々な会社や自治体に本当にお世話になりました。学生である我々に良くしていただきまして、ありがとうございます。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
(大貫・吉田)
参考資料
・【新装版】藩史大辞典 第7巻九州編 木村礎・藤野保・村上直 編
・萱嶋酒造 西の関(http://www.nishinoseki.com/)
・八幡総本宮 宇佐神宮(http://www.usajinguu.com)
・国東市 第2次国東市総合計画 第I部 第3章『国東市のすがた』
(https://www.city.kunisaki.oita.jp/uploaded/attachment/4679.pdf)
・両子寺(http://www.futagoji.jp/)
・臼杵市「江戸末期の臼杵藩船団」(http://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014020600193/)
・臼杵市観光情報協会 歴史と文化(http://www.usuki-kanko.com/?page_id=24)