新潟県(高田藩、糸魚川藩、長岡藩)の食文化
調査班:和田、土山、レ 調査日:2017年7月4-6日
1. 風土・歴史 次へ 目次
高田藩
高田は東西南を山に、北を日本海に囲まれた土地であり、荒川の支流が発達させた広い氾濫原と上下2段の河岸段丘が広がっています。1614年徳川家康の第6子松平忠輝が高田城に移ったときからまちづくりが始まり、用水開削による新田開発が新潟県の他の地域よりも先んじて江戸時代初期から進められ、農業生産において他を制していました。他にも植林・青苧白布生産、煙草栽培、山里漆実採取などが盛んでした。その一方、豪雪地帯であるため水田は稲の単作とならざるをえず、農民は冬期に杜氏や単純労働者として出稼ぎに出ていました。また野菜不足に備え、一般家庭においても野菜の貯蔵や漬物の備蓄が行われていたようです。かんずりが発展した旧新井市は北国街道と飯山街道の分岐点であったため、宿場町として発展しました。
糸魚川藩
糸魚川は糸魚川・静岡構造線の北端にあたり、それに沿って流れる姫川からは翡翠が多く産出され、地質の種類が多いためか山菜や水の種類も多いです。中世上杉氏により築城されて以降城下町として発展し、特に江戸時代には西の加賀藩に対する重鎮の地として譜代が配置されていました。古くから交通の要衝であり、北陸道と信州街道との結節点、太平洋側と日本海側の南北の交易ルートである「塩の道」の北側の起点、北前船往来による海上交通の拠点として栄えました。おててこ舞、天津神社春大祭(糸魚川けんか祭り)など、数100年前から伝わる祭りが現在でも行われています。
長岡藩
長岡は日本屈指の銘醸地として全国に知られています。清酒のみならず、それらを活用した米菓、味噌、醤油などの発酵食品も有名です。また、古くから織物文化が発達していた地域もあり、越後縮と呼ばれる織物は新潟を代表する織物の一種です。
2.1. かんずり 前へ 次へ 目次
かんずりは、戦国武将上杉謙信がヨーロッパから伝来した貴重な唐辛子を京都から持ち込み、農民に分け与えたことに端を発します。当時のかんずりは乾燥させた唐辛子を摺り下ろし、塩と混ぜ合わせたものでした。戦国時代の兵士たちは乾飯とかんずりを竹筒に入れて合戦に挑み、冬場は寒さ凌ぎに、夏場はスタミナをつけるために食べたと言い伝えられています。その後、数百年引き継がれていくうちに、マタタビやニンニク、ミョウガ、山菜などを刻んで擦り込むなど、各家庭に独自のかんずりが造られていきました。この家のかんずりは美味しい!と、かんずりを交換し合うこともあったようです。
旧新井市の伝統食であり、世界にも珍しい唐辛子の発酵食品である「かんずり」。「寒造里」に由来するその名は今や全国に広がり、塩漬けした唐辛子を大寒の日から雪にさらす工程である「雪さらし」は、真っ白な雪の上に鮮やかな赤色が広がるコントラストの美しさから冬の風物詩となり、全国紙にも取り上げられるまでになりました。しかし、50年ほど前、かんずりは存続の危機に瀕していました。
しかし戦後、インフラや流通が整備され、唐辛子などの香辛料がスーパーマーケットなどで気軽に手に入る時代になると、わざわざ手間暇をかけてかんずりを作る家庭は減少の一途を辿りました。そこで立ち上がったのが(有)かんずりの先代の社長でした。漢字で「寒造里」と書く名前が珍しいことと、この地域で生まれた食文化「かんずり」を絶やしてはいけないという思いから、10年の試行錯誤の末、唐辛子、糀、柚子、海水塩の4種類の材料を3年間発酵させるという製法を確立させました。それから徐々に規模を拡大し、現在では全国的に流通するようになっています。
試食させていただくと、想像していたよりも辛味が攻撃的ではなく、辛味・塩味・ゆずの風味が丸みを帯びて溶け合った優しい味がしました。全国の有名割烹料理店や有名ホテルの料理人も隠し味として使用しているようです。焼き鳥に付けたり、鍋物のタレに入れるなど、様々な食べ方が提案されています。
上杉謙信の民を思う気持ち、そして食文化を守るだけではなく、さらに良くして発展させようという、先代の社長と現社長の熱い思いがあってこそ、かんずりが今現代に息づいてるのだと強く感じました。
<調査協力>
有限会社かんずり
新潟県妙高市西条437-1
http://kanzuri.com/
2.2. 笹すし 前へ 次へ 目次
海にも山にも近く、海の幸・山の幸が豊富な土地である糸魚川市の根知(ねち)谷には、とても古くからの歴史と風土があります。近くを流れる姫川の名は、日本神話に登場する大国主命と結婚した奴奈川姫から由来します。また聖徳太子の親族が逃れてきた「御所」と呼ばれる場所も残っているそうです。中世には日本海から信州へ塩を運んだ信州街道、別名「塩の道」の要衝でもありました。
そんな根知谷で、冠婚葬祭に欠かせない郷土料理が「笹すし」です。笹すし自体は長野県や糸魚川市の他の地区にも存在しますが、特に糸魚川にはいくつかの谷があり、谷ごとにも食材や製法が異なっています。これは、道路や鉄道が整っていなかった頃は谷を行き来するのも大変だったため、それぞれ独立した生活圏があったということの名残だと考えられます。根知谷で作られる笹すしのイチオシポイントはズバリ、「押し」です。1枚1枚カッターで成形した笹とご飯、数種類の具を杉の糸柾の箱に敷いて、大きな石で1時間以上かけて強く押すことで、他の地域で作られる笹すしと比べ長持ちします。現在の商品の消費期限は余裕を持って2日間ですが、1週間は常温においても腐らないそうです。
実際に食べさせていただくと、開けた瞬間見た目の美しさにまず驚きました。具はキャラブキや原木シイタケ、はちみつを絡めたクルミなど、地元で採れた豊富な山の幸が盛ってあります。さらに、水とお米は根知谷の中でも一番美味しいものにこだわって使っており、水は日本百名山雨飾山の伏流水、お米は根知谷産のコシヒカリで、米どころ新潟県で何度も一番を取るほどの美味しさです。ご飯の味付けは酸味と甘味が絶妙なバランスで、九郎右エ門のご主人である安田様が板前の修行をされていたときに、全国を回って寿司の味を学んだ経験が生かされているそうです。
現在ではカラフルな具材を用いていますが、安田様が小さい頃は近くの川で獲ってきたヤマメやカジカを焼いて醤油で味付けをしたものを乗せていました。しかし、カジカは川からほとんど姿を消し、ヤマメも少なくなってしまいました。また最近は熊が多く危ないため、クルミ採りに行けなくなったそうです。このような環境の変化で材料は変わったものの、安田様は豊かな自然から採れた食材と古くからの製造方法にこだわっています。長いときは夜中の2時から10時間以上もかけて、手間暇かけて笹すしを作られています。
便利、効率が好まれる世の中の流れからか、笹すしを作れる人はどんどん減っています。そんな中あえて手間暇をかけることによって生まれる食べ物の価値を教えていただきました。
<調査協力>
根知谷笹すし総本舗九郎右ェ門
新潟県糸魚川市蒲池2137-2
http://www.kuroemon.jp/
2.3. かぐら南蛮 前へ 次へ 目次
新潟県山古志村では、「かぐら南蛮」と呼ばれる野菜が栽培されています。戦国時代に渡来した唐辛子の一種です。
ごつごつとした緑色の果実は、夏野菜の苦いピーマンを連想させます。特徴は重量が100g前後と唐辛子類の中で大変大きく、果肉は生では辛くはなくヒダの白い部分と房の白い部分がとても辛いです。塩蔵、調理することにより全体が辛くなります。調理の際は手袋をして、目などデリケートな部分に付着させないよう気をつけます。かぐら南蛮の果実は熟すと色が真っ赤に変わります。そして、果実の底を見てみると、その姿がまるで神楽のお面のようであったことから、その名がついたと言われています。
今回、取材を行った山古志こだわり屋様の加工所では、地元の伝統食材であるかぐら南蛮を用いたさまざまな加工品を製造・販売しています。
お話をお伺いした代表の諏訪さんは、幼少期からかぐら南蛮を口にしていたそうです。山古志村の家庭ではかぐら南蛮を家庭栽培するのが主流で、諏訪さんも、かぐら南蛮の実をそのまま油で揚げた素揚げをよく食べていたとのことでした。昔は主に家庭で栽培し、消費されていたかぐら南蛮ですが、平成16年に発生した新潟県中越地震を機に、安定した栽培を確立して市場に流通するようになったそうです。山古志こだわり屋様のお店では、かぐら南蛮をじっくり煮込んで作った「かぐら南蛮のうま煮」をはじめ、味噌と混ぜ合わせて作った「かぐら南蛮味噌」など、かぐら南蛮のピリ辛が効いた加工品を多数取り扱っています。
さて、このように唐辛子として山古志の人々に愛されてきたかぐら南蛮ですが、実は山古志以外の地域にも、かぐら南蛮と同じような食材があります。それは、地元では「ぼたんこしょう」と呼ばれる長野県中野市の伝統食材です。かぐら南蛮とぼたんこしょう、両者ともに地元の家庭用食材として昔から栽培されてきた唐辛子であり、また、冷涼な気候を好むため、主に標高の高い地域で品質が安定しているという共通の特徴があります。
かぐら南蛮の名前の由来は、「神楽のお面」の形に見えるということでしたが、ぼたんこしょうはその見かけが「牡丹の花」のように見えることからその名がついたとされています。同じ見かけをした唐辛子であるにも関わらず、お互いに全く異なる印象を与える名前がついていることに、少々驚かされます。
この二つの唐辛子には、さらに重要な共通点があります。新潟県と長野県を結ぶもの、それは日本一の長さを誇る信濃川および千曲川です。実は、元々新潟県で栽培されていたかぐら南蛮が、この河川を介して長野県の山間部に伝わったと推察されています。それが現在のぼたんこしょうのルーツであると考えられているのです。
文明のつながりや地域間の結びつきがどのようにして誕生したのか、その謎を解く鍵は我々にとって最も身近な「食」の中に隠されていることがあります。日本において、人をはじめ、地域、文明、様々な文化と食との間には、多くのつながりが隠されているのではないでしょうか。
<調査協力>
山古志こだわり屋
新潟県長岡市山古志虫亀1012
2.4. へぎそば 前へ 次へ 目次
「へぎそば」というおそばをご存知でしょうか。新潟県魚沼地方で生まれた伝統的なおそばです。へぎそばには、海藻であるフノリがつなぎとして使われていて、つゆを吸いにくくツルツルとした食感があります。
今回、我々が取材したのは、十日町で大正時代からへぎそばを打ち続けている㈱小嶋屋総本店様です。店の近くには日本一の長さを誇る信濃川が流れており、また、旧国鉄(現JR)時代から、山手線などの電力源となっている水力発電所も見られます。
(左写真提供 小嶋屋総本店)
へぎそばでは、そば粉とそば粉をつなぐ役割をもつ「つなぎ」としてフノリを用いて製造します。フノリには大きく分けて三種類ありますが、このお店で主に使用しているのは、その中でも粘り気のある「フクロフノリ」という品種です。この品種は、海藻の葉っぱの中に袋状になった空洞があるのが特徴です。しかし、フノリは日本でもごく限られた遠浅の海でしか採集することができない貴重な海藻です。現に、新潟県の沿岸でフノリを採集することはできません。この新潟の地で、へぎそばは一体どのように誕生したのでしょうか。
新潟県内には日本一の長さを誇る信濃川が流れており、川沿いには数多くの遺跡が残っています。へぎそば発祥の地である十日町では、古くより織物文化が発展していました。ここでは、代表的な麻織物である「越後縮」をはじめ、縄文時代から伝わる植物繊維を編んで作った「越後アンギン」など、数多くの織物が誕生しています。中でも、越後縮では、そばの茎を燃やして作ったアク汁から糸を漂白したり、織物の糸に張りを持たせるためにフノリを糊付けとして使ったりと、のちに現在のへぎそばの材料となる素材が含まれています。
フノリは新潟県内で採取されていなかったものの、十日町ではフノリが織物文化の材料として青森県から運ばれていたため、十日町で生活する当時の人々にとって、簡単に手に入れることができる海藻でした。
さらに、新潟県内ではやせた土地でも栽培可能なそばが多く生産されていました。「そば打ちができて一人前」と言われた時代もあるくらい、各家庭においてそば打ちが行われていた歴史があるそうです。このような背景のもとで、庶民の家庭内で偶然フノリとそばが出会い、現在のへぎそばの原型が生まれたといわれています。
このように,特定の地域で生じた食文化であっても、その土台となるのは他の地域との文化的交流に由来していることがあります。食文化と織物文化が合わさって生まれたへぎそばをはじめ、日本国内における多様な文化によって、新しい文化が生まれる要素がまだまだたくさん潜んでいるのではないでしょうか。
<調査協力>
株式会社小嶋屋総本店
新潟県十日町市中屋敷758-1
http://www.kojimaya.co.jp/
2.5. 越後味噌 前へ 次へ 目次
今回は、燕吉田の越後味噌醸造株式会社に新潟県産の味噌について取材に行きました。越後味噌醸造は1771年に酒蔵として創業し、現在は味噌を中心に製造しています。越後味噌醸造で作られる味噌は「越後味噌」の一つであり、新潟の風土でつくられた赤色辛口米味噌に分類されます。米麹を使って作られ、まろやかでこくがあるという特徴を持っています。越後味噌を製造する蔵はたくさんありますが、越後味噌醸造の特別な製造方法を紹介したいと思います。
越後味噌醸造の最大の特長は、100年以上使われ続けている木桶を使用していることにあります。木桶だけでなく、建物自体も江戸時代から約250年の歴史があり、麹室(こうじむろ)の天上の一部は今でもそのまま使用しています。工場に70個近くある木桶は、長い年月を通じて水分を吸い、醸造に必要な酵母菌などが住みつき、味噌を味わい深く発酵させてくれます。木桶は高さが2mあり、1つで4トン以上の味噌を収容できる非常に大きなものですが、越後味噌醸造では機械をあまり使わず人中心の味噌作りを行っています。
味噌の材料は大豆、塩、米麹、酵母であり、これらを混ぜたものを木桶の底に向かってを勢い良く放り込み、およそ3ヶ月の間、木桶の中で発酵させます。その後、味噌を同じ大きさの空の木桶にスコップを使って入れ替え、再び3ヶ月ほど発酵させることで完成品になります。この工場では手作業で手間ひまかけて味噌を作ることで昔ながらの味わいを守っています。また、今は木桶を使っている味噌蔵は日本全国の1%程度しかなく、大きな木桶を作る会社に至っては1社しか残っていません。このような貴重な木桶は、意識的に守っていかなければいずれ無くなってしまうかもしれません。
越後味噌醸造では、醸造の技術・歴史を知ってもらうために、地元の小学生向けに工場の見学や味噌づくり体験をここで行うようになりました。また、「昔ながらのしょっぱい味噌漬け」という、昔ながらの味が好きな人には重宝、若い人にはあまりない味として評価され、昔ながらのしょっぱさこそが越後味噌本来の味であると、これを守り続けています。
一方、伝統を守るだけでなく、時代の変化に合わせて新しい商品も開発しています。燕市産大豆を使った新たな味噌、自家製の米麹からつくった甘酒などです。このように、伝統的な味を守り続けているからこそ、現代の味覚と結びつくことで、新たな価値が生みだせるという側面もあるのではないでしょうか。
伝統的な技術や味を守る、というのは日本全体で見ても難しい問題です。意図的に守らなければ、伝統は時代の変化とともに薄れていくものからです。越後味噌醸造のように、伝統的な技術や歴史を見学・体験活動によって人々に伝え、時代の流れを取り入れ新たな価値を持つ商品を創造していくことは、この問題に対する解決策の一つになるのではないでしょうか。
<調査協力>
株式会社越後味噌醸造
新潟県燕市吉田中町5-10
http://www.echigomiso.co.jp/
2.6. 漬物(味噌漬け・粕漬け) 前へ 次へ 目次
魚沼新潟物産は日本酒の銘柄「八海山」で有名な八海醸造のグループ会社で、平成11年から主に漬物及び惣菜の製造を行っています。魚沼新潟物産で製造している漬物の種類は「味噌漬け」「粕漬け(奈良漬け)」がありますが、どれも共通して最初は半年から1年近く塩漬けにします。その後、味噌に漬け換えたものが「味噌漬け」、酒粕に漬け換えたものが「粕漬け」になります。これらは2、3年の間に2度漬け換えを行い、熟成させます。
酒蔵と漬物というのは一見関係がなさそうに見えますが、実は深い関わりがあります。酒造りの際には酒粕が生じるため、この有効な利用先として粕漬けがありました。また、昔、酒造りは酒蔵に多くの蔵人が住み込んで行っていました。彼らの食事のおかずとして提供するために、酒蔵の中で漬物を作っていたそうです。
八海醸造のある南魚沼では昔から家庭でも保存食として味噌漬けを作っていました。魚沼新潟物産で現在作られているような手間のかかる製法ではなかったようですが、味噌や粕に漬ける前に塩漬けにし、夏季に天日干しにするとカリカリとした食感になるなど、幾つかの知恵があったようです。
魚沼新潟物産の商品には地元の野菜である神楽南蛮や巾着茄子を使用した漬物や惣菜があり、地域の食を守ることに貢献しています。また、「千年こうじや」というアンテナショップが東京の都心にも進出しています。もともと酒蔵の中で始まった漬物作りが、現在では広い地域に影響を及ぼしていることに歴史を感じました。
<調査協力>
有限会社魚沼新潟物産
新潟県南魚沼市宮2294-15
3. 最後に 前へ 目次
今回かんずりと笹すしに関して取材させていただいた中で、食文化について気づき、考えたことが2点あります。
1点目は食文化の担い手の減少です。かんずりも笹すしも食文化を守ろうという強い意志を持った方々がいたからこそ現在も残っていますが、地域全体を見渡すと食文化の担い手は減少しています。また日本全体を見ても、米食が手軽なパン食に取って代わられつつあります。自戒も含め、食の手軽さばかりを追求するのを一人ひとりが見直し、日本の風土に結びついた多様な食文化を後世に残していくべきではないでしょうか。
2点目は自然環境の変化が食文化にも影響を及ぼしているということです。かんずりは、中国からの汚染物質や近年の降雪量の減少が雪さらしできる期間、場所を減少させています。また笹すしに関しては、川の水質汚染や野生動物の増加が笹すしの材料の変化をもたらしました。これらの事実に対し、環境工学を学ぶ学生として自然環境を護る思いを強くしました。(和田光央)
今回の取材で共通していた最大の特徴は、新潟県の地形にありました。日本一の長さを誇る河川である信濃川は、十日町の文明を支え、山古志のかぐら南蛮を他県へと広めました。また、新潟県では採集の難しいフノリも、日本海を通じて伝わり、十日町の織物文化を支えています。変動帯に位置する複雑な地形をもった日本列島であるからこそ誕生した、日本独自の食文化について、歴史的・地理的背景から今後も調査を続けていきたいと思います。(土山絢子)
今回新潟県の食文化について取材に行ったことで、いろいろなことが勉強できました。外国人の視点から見れば、食べ物に対して地域の歴史や伝統などの文化的な要素を大切にしようという日本的な考えは素晴らしいと思いました。味噌、漬物、そばなどはただの食べるものではなく人々の生活と強いかかわりがあるので、伝統を守れば昔の暮らしを現在の暮らしに結びつけることができます。逆に長い歴史を持っている伝統的食べ物を守らなければ、今の人は祖先の生活、思考を理解できなくなってしまいます。私の国ベトナムではこのような危険をよく感じています。数年前まで食べていた地元のお菓子は誰も気にしていないうちにだんだん食べられなくなって、もう市場からなくなりました。ですから、特に、今回に訪問した越後味噌醸造では地元の学生や若い人たちに越後味噌作りなどを体験してもらうことを知り、「なるほど」、「それもあるのか」といった驚きとともに、非常に感動しました。 (レ・ミン・コア)
参考資料
・タネのつる新 種苗店HP
牡丹胡椒(ぼたんこしょう) 辛とうがらし http://tane.jp/haruyasai/pepper/hinshu/botankoshou.html
・長野県中野市HP
農産物の紹介 「ぼたんこしょう」 http://www.city.nakano.nagano.jp/urenou/2014012800358/
・新潟屋HP
新潟の越後味噌醸造について http://www.niigataya.net/original95.html