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広島県の食文化

広島県(広島藩、福山藩)の食文化

調査班:中村 祐哉、山手 雄太  調査日:2018年3月12-13日

目次

1. 風土・歴史

2. 調査した郷土食

2.1. 広島菜漬(広島藩)
2.2. 府中味噌
2.3. うずみ
2.4. 牡蠣料理・お好み焼き・鯛茶漬け

3. 最後に

1. 風土・歴史                      次へ 目次

 広島県は中国地方のほぼ中央に位置する県で、北部を中国山地、南部を瀬戸内海に囲まれた地形をしています。このため、北部では標高が高く、年間を通して気温が低い、降水量が多いといった特徴がある一方、南部では標高が低く、年間を通して気温が高い、降水量が少ないといった瀬戸内海気候地帯の特徴を持っており、県内で気候に地域差が大きくなっています。また、このような風土から、広島県では山の幸、海の幸の両方に恵まれ、農業や漁業ともに盛んなことに加え、広島市を中心に自動車産業を始めとした工業や商業も盛んなことから、「日本国の縮図」とも呼ばれています。
 歴史的には、広島市を中心とする西部は「安芸」、福山市を中心とする東部は「備後」と呼ばれていました。安土桃山時代には、安芸国の国人であった毛利元就によってこれらの地域を含む中国地方が統一され、以来毛利氏によって治められていました。しかし、慶長5年(1601年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将として参戦するも敗戦し、防長二国(山口県)へと転封されたことで、尾張国清州(愛知県)より転封した福島正則が代わって広島を治めるようになりました。その後、元和5年(1619年)に、福島正則が洪水で崩壊した広島城を無断改修したことで、武家諸法度違反により川中島藩(長野県)に転封された際に、広島藩と福山藩に分割され、それぞれ浅野長晟、水野勝成によって治められることになりました。

1.1. 広島藩

 福島正則が転封されると、代わって紀伊藩(和歌山県)から浅野長晟が安芸および備後の約半分(42万石)を入封し、広島藩の初代藩主となりました。長晟は、瀬戸内海の恵まれた海運網を利用し、木材や鉄、紙などの専売に取り組み、広島藩の財政の基礎を築き上げました。長晟が47歳で死去すると、長晟の跡を光晟、綱晟、綱長が順に継ぎますが、綱長の時代に、浅野分家の赤穂藩(兵庫県)藩主の浅野長矩が吉良上野介を斬りつける事件、いわゆる「赤穂事件」が起こります。この事件に対して綱長は、当初、浅野家がまとめて処罰を受けるのを避けるため、赤穂藩に対して圧力的な態度を取りました。しかし、赤穂浪士の討ち入りによって彼らが社会的に評価されるようになると、綱長は態度を一変して赤穂藩を優遇し、浅野家の支持の獲得に利用しました。幕末になると、広島藩は第一次長州征伐において、幕府軍の最前線基地としての重要な役割を担いました。広島藩はそれまで、相次ぐ洪水や冷害によって不安定な藩財政が続いていましたが、長州征伐によって戦争景気がもたらされると一気に財政は好転しました。その後、第二次長州征伐では、広島藩は幕府軍と長州藩の仲介役を務めました。しかし、藩内で徐々に反幕の意識が高まると、広島藩は、幕府軍から要請された第二次長州征伐の先鋒役を辞退することになります。そして第二次長州征伐が幕府軍の敗北に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を強く受けるようになり、慶応3年には、長州藩、薩摩藩とともに三藩同盟を締結、その後は討幕派の一つとして戊辰戦争等に加わりました。

1.2. 福山藩

 福山藩は、広島藩から分割された備後南部(10万石)が水野勝成に与えられたことから始まり、入封後、勝成は新田開発や灌漑事業、産業育成などを進め、藩政の基礎を築きました。勝成の死後は、勝俊、勝貞、勝種と4代まで続きますが、勝種の急死により生後すぐに跡を継いだ5代藩主の勝岑が1698年に2歳で死去したため水野家は改易となりました。
 水野家の断絶により福山藩領は一時天領となり、代官が派遣され再検地が行われました。この時、福山藩は約15万石と査定されました。
 続いて、1700年に松平忠雅が改めて10万石(15万石-5万石)で入封しましたが、1710年には、桑名藩(三重県)にすぐに転封となりました。
 その後、阿部正邦が入封し、阿部氏による藩政は廃藩置県まで161年続きました。阿部氏の中でも特に7代藩主の阿部正弘は、わずか25歳で老中首座に就任し、日米和親条約を締結したなど著名な人物です。この時代の歴代藩主は幕閣の中枢を目指して江戸に常駐していました。このため、藩政では多くの経費を必要としていました。また、この時の領地は天領時代の検地による厳しい査定での10万石であったため、財政状況は厳しく倹約政治を敷いたため、一揆が多数発生しました。中でも、領内全域を巻き込んだ天明の一揆は特に有名です。

(中村、山手)

 

2.調査した郷土食

2.1. 広島菜漬(広島藩)          前へ 次へ 目次

 「広島菜漬」は、九州の高菜、信州の野沢菜と並ぶ日本三大漬菜である広島菜の漬物です。今回は、「廣島魁(ひろしまさきがけ)」をキーワードにこだわりを持って広島菜漬を製造されている株式会社山豊様にご協力いただき、広島菜漬について教えていただきました。

 広島菜漬の原料となる広島菜は広島県名産の伝統的な漬菜で、鮮やかな緑色とわさびに似た清涼感のある独特の風味が特徴の野菜です。その歴史は古く1600年代前半、福島正則の参勤交代に従った観音村の住人が、帰途に、京都本願寺に参詣して種子を手に入れ持ち帰ったと言われています。その後明治時代に、広島県の川内村の木原佐市が品種改良を行い、現在の広島菜を作り上げたとされています。明治38年(1905年)には、廣島縣農会発行の「農事調査第4報 蔬菜ノ部」で広島菜の主産地は川内村とされ、広島県で最も有名な蔬菜であり、漬物として最適であると記述されています。広島菜漬の発祥について詳細は不明ですが、当時の野菜の食べ方の基本的な方法に塩漬があったことを考えると、栽培と同時に広島菜漬への加工も自然と始まっていたと考えられています。広島菜漬が広まった経緯として、明治時代から昭和時代にかけて、大阪に進出していた広島の牡蠣船(川辺に係留した和船で牡蠣料理を食べる)で牡蠣飯と一緒に出されていたことが挙げられます。

 広島菜は、基本的に県内の安佐南区川内地区で生産されているそうです。特に、株式会社山豊様では、旬の時期(11-12月)に浅漬に加工する広島菜はすべて川内地区で生産されたものを使用しているそうです。川内地区は、太田川と古川に挟まれた土地で、川の流れが運んできた栄養豊富な土壌が積もった肥沃な土地で、水はけの良い砂壌土が広島菜の生産に適しているそうです。広島菜は、他の野菜と比べても栽培に気を使う難しい野菜としても知られています。連作に弱いことや、雨や雪、霜などで葉が痛みやすいため収穫適期も短く、収穫時期が遅れると繊維が固くなってしまうことなどがあるそうです。また、近縁種のアブラナ科の植物と交雑しやすいため、広島菜の種を守るために生産者の方とメーカーが協力して、3月に畑周辺の河川敷に自生するからし菜を刈り取る「からし菜(アブラナ科)退治」を行っているそうです。

 収穫された広島菜は、「浅漬」と「古漬」の二種類の広島菜漬に加工されます。今回のインタビューでは、株式会社山豊様のご厚意により、その製造を行っている工場の見学をさせていただきました。浅漬の製造方法は下図のようになっており、荒漬、中漬、本漬の三段階の漬け込みによってその美味しさ作り上げています。特に株式会社山豊様では、収穫直後の広島菜は新鮮なほど葉っぱにハリがあるゆえ、パキッと折れやすいため、余り触らずそのまま荒漬を行い、漬け込んでしんなりさせた後に手洗いによる丁寧な洗浄を行うなど、品質の向上・維持のために尽力されていることなどがお伺い出来ました。古漬は、11-12月にかけて農家から仕入れた新鮮な広島菜を塩とともに漬け込み、高塩濃度下で広島菜由来の乳酸菌によって鼈甲色になるまで乳酸発酵させているそうです。

 このようにして製造された広島菜漬ですが、広島県内ではスーパーの漬物コーナーに並ぶように日常の食卓で愛されているそうです。一方、日本全国ではお歳暮の贈り物として用いられることが多いそうです。有名なところでは、広島カープが毎年株式会社山豊様の広島菜漬を他の11球団にお歳暮として贈っているそうです。また、広島菜は一般に漬物として以外には調理されることはなく、漬物加工されてから食されているそうです。広島菜漬けは、そのまま白ご飯とともに食べてももちろん美味しいですが、株式会社山豊様の公式HPでは様々な料理へのレシピも紹介されているので、ぜひ味わってみてください。

<調査協力>

株式会社 山豊
広島市安佐南区伴東町79-2
http://www.yamatoyo.co.jp/

 

 

 

 

2.2. 府中味噌               前へ 次へ 目次

 「府中味噌」は、400年近い伝統が受け継がれた関西を代表する高級味噌です。今回は、1872年から健康に配慮した味噌作りを目指して府中味噌を作り続けている金光味噌株式会社 代表取締役社長の金光康一様にお話をお伺いしました。

 府中味噌は、江戸時代の豪商 大戸久三郎により、企業販売を開始されたとされています。その後、大戸氏が福山藩藩主の水野公に献上し、府中味噌という称号をもらって販路を広げました。水野公は参勤交代の道中に各地の諸大名に府中味噌を贈呈し、これにより府中味噌は特権上流階級を中心に全国に名を馳せたそうです。古くには戦国時代には作られていたと言われていますが、古い資料はまだ見つかっておらず、現在調査している最中とのことです。また、府中は山陽道から出雲道への要衝の地でもあり、諸国人の出入りが多く、旅人のお土産として郷里へと持ち帰られたり、地場産業の業者が取引先へ進物として用いたりしていたそうです。口伝では奈良で開かれた博覧会に「白味噌」を出品し最高賞を獲得して、全国に名を馳せたとも伝わっています。

 

 府中味噌は右図のような手順で製造されています。今回のインタビューでは、金光様のご厚意で実際に稼働している工場の見学をさせていただきました。材料には、かつては府中を中心とした地域の食材を用いて製造されていたそうですが、現在は全国から集められた良質な食材を用いているそうです。味噌に使用される大豆は皮と実の間に旨味が多く含んでいますが、味噌の色が変わりやすくなるため、一般に白味噌の製造では皮を剥いてから製造に用います。しかし、府中味噌では味と栄養価を優先し皮を剥かずに用いているため、寒い時期には味噌の表面にチロシンの結晶が出てくるほど旨味成分が多く、栄養価が高いそうです。また、府中味噌は他の味噌と比べ麹歩合(大豆に対する米の割合)を大きくしているため、炭水化物も多く甘い味になっています。味噌の発酵には全国でも数少ない大きな杉樽を用いており、工場全体に定着している蔵付き酵母や米麹といった目に見えない功労者たちに気を使って丁寧に製造しているそうです。

 このようにして作られた府中味噌ですが、業界関係の方々の間では、お味噌汁などの通常の食べ方の他に様々な料理にも使用されているそうです。例えば、スーパーなどで市販されている肉を白味噌に一晩漬け込んで、タンパク質を分解させて熟成させることで、上質な肉の味になるそうです。また、カレーやホットケーキなどに加えることで、味噌の旨味とまろやかさのある風味になり非常に美味しいそうです。この他にも、金光味噌株式会社様の公式HPで複数のレシピを公開されているので、ぜひ調理して食べてみてはいかがでしょうか。

<調査協力>

金光味噌 株式会社
広島県府中市府中町628
http://www.kanemitsu-miso.co.jp/

 

 

 

 

2.3. うずみ                前へ 次へ 目次

 「うずみ」は、江戸時代から続く福山の伝統的な郷土料理です。今回、福山市情報発信課様と、福山市光南町の日本料理 川長様にご協力いただき、うずみに関するお話をお伺いすることができました。

 うずみは、旬の野菜やお肉などの上にごはんをのせ、お出汁をかけた料理です。その名前の由来には諸説ありますが、ごはんの下に様々な食材がうずめてあることからその名がついたとされています。

 うずみの発祥には様々な説があるそうです。一説には、江戸時代、倹約政治によって庶民が贅沢な食べ物を口にするのを禁止されていた際に、食材をごはんで隠して食べたことに由来するそうです。その一方で、当時、西日本全体で食べられていた料理の一つに「うずみ豆腐」、別名「備後豆腐」(田楽味噌を塗った豆腐の上にごはんをのせたもの)があり、それに由来するという説もあるそうです。このうずみ豆腐ですが、京都では、お寺での修行の合間や、表千家の年の瀬の時期に行われた稽古の際など、比較的忙しい時期に簡単に作れるご馳走として振る舞われていたそうです。また、秋の農作物の収穫祭にも振る舞われていた記録もあり、「隠れて食べるもの」というより、いわゆる「ハレ」の料理としての位置付けであったそうです。福山のうずみは、うずみ豆腐をもとに、豆腐のみならず様々な食材にごはんをのせた料理として、福山の祭り行事や、お茶文化と結びつき、広く普及したと考えられます。

 今回のインタビューでは、日本料理 川長様のご厚意により、実際にうずみを頂くことができました。目の前に実際にうずみのお椀が出されると、まず目にはお出汁のかかった白いごはんが入ってきました。一体どんな食材がごはんの下に隠れているのだろうと期待しながらごはんを少し崩してみると、ごはんの下からは鶏肉や海老、人参や里芋、椎茸などの様々な食材が出てきました。どの食材も小さく丁寧に調理され、非常に色鮮やかでとても豪華な印象を受けました。実際に口に運んでみると、いりこ出汁とともに様々な食材から出た風味高い出汁の香りが口に広がり、また、様々な食材の食感と合わさって、とても味わい深い贅沢な一杯でした。今回、鶏肉をつかった伝統的なうずみを頂きましたが、福山市の「鞆の浦」では鯛が有名なこともあり、鶏肉の代わりに鯛を用いることもあるそうです。「福山鯛うずみ」のレシピはこちらから見ることができます。

 江戸時代から続く歴史を持つ福山の郷土料理うずみ。昭和40年代ごろまでは各家庭で一般的に食されていたそうですが、現在は食べる機会が減少しつつあるそうです。福山市情報発信課の方からは、2010年より立ち上がった「福山食ブランド創出市民会議」の取り組みのお話をお伺いすることができました。「福山食ブランド創出市民会議」は、主に福山市民が福山の食ブランドの創出・発信を行う取り組みです。取り組みの一つである「うずみフェスタ」では、様々なお店が創作したオリジナルの「カクテルうずみ」が提供されたほか、江戸時代のうずみ豆腐がお茶の席とともに再現・提供され、2016年開催時には25,000人もの人が市の内外から来場したそうです。その他にも、福山の伝統的な郷土料理であるうずみを広めるために、学校での調理実習、うずみレシピ集の公開、「福山うずみごはんマップ」の策定など、うずみに関する様々な取り組みが行われているそうです。

 古く江戸時代から続くうずみですが、今もなお福山の人々の生活とありつづけるまさに福山を代表する一杯なのではないでしょうか。

<調査協力>

福山市情報発信課
広島県福山市東桜町3-5
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/jouhou-hasshin/

 
 
 
 
 
 
 
 
 

日本料理 川長
広島県福山市光南町3-10-6
https://ja-jp.facebook.com/日本料理-川長-209517702418315/

 

 

 

 

 

2.4. 牡蠣料理・お好み焼き・鯛茶漬け    前へ 次へ 目次

 今回の食文化調査では、以上の3つのインタビューの他にも、道中で様々な広島県ならではの料理を頂きました。

 1日目の昼食には、広島駅ビル内にあるかなわさんで牡蠣料理を頂きました。「牡蠣生産量日本一の広島県に来たからには牡蠣は外せない」ということで、お昼から早速、牡蠣ご飯、牡蠣フライ、牡蠣グラタン、牡蠣の土手鍋などなど、牡蠣のフルコースを堪能しました。特に牡蠣の土手鍋は広島の郷土料理ということで、事前調査の時点から興味があったのですが、牡蠣のエキスと濃厚な味噌の組み合わせが非常に風味高くとても美味しかったです。

 1日目の食文化調査を終えた後、夕食には、中区新天地にある「お好み村」でお好み焼きを頂きました。お好み村は、1つのビルの中に20件をも超えるお好み焼きのお店が入る広島市の人気スポットです。訪れたのは平日の夜でしたが、どのお店にもたくさんの人がいてとても活気のある場所でした。お好み焼きはキャベツとそばがたっぷりと入っていてボリューム満点、大満足の1皿でした。

 2日目は、朝から広島県の東部にある福山市に移動し、府中味噌とうずみの食文化調査を行いました。今回、時間の都合で頂くことはできませんでしたが、府中味噌の調査で訪れた府中市は、「府中焼き」という料理でも有名な地域だそうです。府中焼きは、お好み焼きをベースとして豚バラ肉の代わりにミンチ肉を入れたのが特徴で、「B1グランプリ」では、広島県代表としてエントリーしたこともあるそうです。市内には府中駅を中心としてたくさんの府中焼きのお店があり、府中駅では「府中焼きマップ」が配布されていました。府中市に訪れる機会があれば是非召し上がってみてください。

 全てのインタビューを終えた後、今回の食文化調査最後の夕食には、福山駅近くの海の幸八さんで鯛茶漬けを頂きました。瀬戸内海に面した福山市は、非常に海産物が豊富で、特に福山市鞆の浦は、約380年続く伝統的な鯛の漁法「鯛網」が行われていることで有名だそうです。頂いた鯛茶漬けは、鯛の身がとても引き締まって新鮮でした。東京ではなかなか味わうことのできない新鮮な海鮮に舌鼓をうち、東京への帰路につきました。

 

3. 最後に                          前へ     目次

 今回の食文化調査では、たくさんの方々のご厚意により、インターネットなどでは決して得ることのできない数多くの貴重な経験をすることができました。お忙しい中、調査にご丁寧に協力いただき本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
 調査では、製造や調理の現場を見学したり製造者や調理師の方から直接お話を聴いたりすることで、各地域の食文化が、その土地土地の地理や気象、政治、流通、宗教などの様々な背景と、そこで暮らす人々の長い創意工夫の積み重ねによって形成されたものであることを実感しました。
 食の欧米化などによって、私たちが郷土料理を食べる機会は減りつつあります。また、それは漬物や味噌のような発酵食品についても同様です。しかし、それが長い年月をかけて形成してきた貴重な食文化を失うことであることに改めて気づかされました。その一方で、今回お話を聴いたどの方々も、食文化を守っていくために、多大な工夫と努力をされていること、そして、ただ古来の伝統に従うだけでなく新たな技術や趣向を積極的に取り入られていることは、非常に驚きであったと同時に、今回の調査で最も感銘を受けた点でした。
 微生物学に関わる一学生として、今回得た知識と経験を単にこの調査の範囲で留めるのではなく、自分の研究や今後の行動に活かしていきたいと感じました。そして、その結果を積極的に社会に還元していくことで、私たちの食文化の発展に寄与していきたいと思いました。

(山手、中村)

 参考資料

・広島県庁(https://www.pref.hiroshima.lg.jp
・木村 礎, 藤野 保, 村上 直,『藩史大事典 第6巻 中国・四国編』, 雄山閣, 295‒316 (1991)
・府中味噌協同組合(https://www.fuchu-miso.jp
・福山食ブランド創出市民会議(http://fukuyama-uzumi.com/

 

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