「微生物ゲノム×地域」で 食のブランディング

愛知県の食文化

調査班:矢後、澤田  調査日:2016年11月7日, 12月2日, 22日

目次
1.  風土・歴史

1.1. 尾張藩
1.2. 岡崎藩

2. 調査した郷土食

2.1. 守口漬(尾張藩)
2.2. かりもり漬(尾張藩)
2.3. 白醤油(尾張藩)
2.4. 八丁味噌(岡崎藩)

3. 最後に

1. 風土・歴史                    次へ 目次

愛知県は大きく、西側の尾張地域と東側の三河地域に分けられます。領域の境界については諸説ありますが、一説には境川と猿投山を結ぶ線がその境界だと言われています。夏は雨が多く、冬は乾燥する、温暖な太平洋岸気候に属していますが、東三河の山間部は日本アルプスの一部となっており、冬は厳しい冷え込みがあります。また、県の北西側は日本海との距離が短く、さらに県の北東側に日本アルプスがあることから、冬は日本海からの湿った北西の風が入り込みやすく、降雪をもたらすことがたびたびあります。

尾張藩

尾張には木曽三川によって形成された濃尾平野が広がっています。濃尾平野は古くから農地として活用されており、穀倉地帯として重要な役割を果たしてきました。江戸時代に、徳川家康がこの地に名古屋城を築城したのも、この地域の高い農業生産力を重要視し、支配を強めるためであったと考えられています。この地域は雨が多く、木曽三川が氾濫するため、たびたび水害に悩まされていました。しかし、江戸時代に大規模な治水工事が行われると、濃尾平野は温暖な気候を活かし、豊かな農地として広く利用されるようになりました。また、城下町の人口が増えたことや、名古屋城北側の枇杷島で青物市場が開設されたことからも、農産物の取引が活発になり、農業が盛んな地域となりました。交通網として名古屋城の北側に中山道が、南側に東海道が通り、これらにつながる街道も発達したほか、名古屋城北側を通る庄内川やその支流を利用した内陸水運、知多半島を中継地点とした海運も発達したため、商業や工業が盛んな地域でもありました。知多半島に酒や酢をはじめとする醸造業が多く成立したのも、こうした背景によって廻船業が発展したため、原料や商品の運搬が促進されたからといわれています。

岡崎藩

三河地域の西側、矢作川流域が岡崎藩の領地で、矢作川によって形成された岡崎平野が広がっています。岡崎平野では、明治期に用水路が築かれると米や麦が広く栽培され、畜産と組み合わせた農業が行われるようになりました。それまでは、矢作川流域のごく狭い範囲で、農業が営まれていたと考えられています。江戸時代、幕府の政策によって、尾張国とは対照的に、三河国には小藩が分立する政治体制が取られました。その中でも岡崎藩は西尾藩(現:西尾市)吉田藩(現:豊橋市)と並んで、三河国を代表する藩として存在していました。岡崎は矢作川を利用した水運の拠点となり、山地の産物が信州から運び込まれ、塩や海産物が運び出されました。岡崎は城下町と東海道の宿場町、物流の中継地など、複数の顔を持つ街として発展してきました。

(澤田)

2. 調査した郷土食

愛知県には特色のある郷土に根付いた食文化が多く見られます。今回は尾張藩からは守口漬、かりもり漬、白醤油を、岡崎藩からは八丁味噌を選び、調査しました。

2.1. 守口漬(尾張藩)           前へ 次へ 目次

守口漬の原料である「守口大根」は、今から約300年前に中国から大根の原種を持ち帰った「守口治衛門」の名がその由来であるとの説があります。この大根は主に関西地方で栽培が行われましたが、明治期以降、大阪市街の拡大によっていつしかこの大根は栽培されなくなってしまったようです。一方で、美濃国(現在の岐阜県)でも江戸時代から独自に栽培されていた細長い大根(ホソリ大根、美濃干大根)がありました。この大根が明治期以降、「守口漬」に用いられるようになり、いつしか「守口大根」と呼ばれるようになりました。「守口漬」という名前は歴史が古く、安土桃山時代(1500年代後半)に豊臣秀吉が開いた茶会で出された大坂守口の漬物が「守口漬」の起源との説があります。江戸時代には、尾張徳川家で重宝され、参勤交代で訪れた大名たちに振舞われており、このことが全国に「守口漬」の名を広めたと考えられています。江戸時代に食された「守口漬」は現在のようなみりん粕を使ったものではなく、シンプルな粕漬けでした。現在のみりん粕を使った守口漬の製法が確立したのは明治期で、当時の実業家である山田才吉氏がきた福商店でダイコンをみりん漬けにしたものを売り出したことがきっかけでした。

現代の守口漬の最大の特徴は、その原料である守口大根にあるといえます。守口大根は直径が数cm、長さが120cm近くある、非常に珍しいダイコンです。このようなダイコンを使った漬物は他に例がありません。守口大根の起源については先に述べたとおりですが、現在守口漬に使われている守口大根は、美濃国で栽培されていたホソリ大根、美濃干大根がそのルーツだと考えられています。戦後、岐阜県で栽培されていた守口大根の種子が愛知県にもたらされ、愛知県でも栽培が始まりました。守口大根は細く長いため、栽培可能な土壌が限られるだけでなく、特別な栽培技術も求められます。愛知県では、この守口大根を守り育てるため、「母本選抜」と呼ばれる、翌年に撒く種子を取るための大根を選抜する取り組みを毎年12月に行っています。良質な守口大根を次世代に受け継ぐため、長さや太さを基準に大根を選抜しています(写真は2016年の母本選抜で守口大根の品定めをしている様子です)。

守口漬は愛知県と岐阜県のわずか数社の漬物メーカーによって大切に作られています。守口漬の製造方法は各メーカーによって差はありますが、おおよそ以下の手順で作られています。

  1. 守口大根を塩で漬ける(低塩濃度)
  2. 1.でつけたものをさらに塩でつける(高塩濃度)
  3. 2.でつけたものを酒粕につける
  4. 酒粕を替え、何度か漬け替えを行い、塩分濃度を下げる(複数回)
  5. 仕上げにみりん粕やざらめを使って甘く仕上げる(最終的な塩分濃度は3%程度)

守口漬は完成までに2年以上かかり、何度も酒粕を替えて漬け直すなど、手間暇をかけて作り上げる芸術品ともいえます。普段の食卓に上がることもありますが、贈答用に買い求められることも多い高級漬物として広く知られています。

以前は、大きな漬樽に入った守口漬が名古屋土産として買い求められていましたが、現在では大きく、重く、かさばることが逆に倦厭され、少量パックが主流となっています。守口漬が以前ほど売れなくなる中、取材させていただいた大和屋守口漬総本家の鈴木社長は、「食文化が生き残るかどうかは現代の人に求められるかどうかによる。古いからいい、古いから守るべき、という掛け声だけでは文化は残らない。」とおっしゃっていました。未来に食文化を受け継ぐためには、現代を生き延びなくてはならないという強い思いを感じました。

(澤田)

<調査協力>

株式会社大和屋守口漬総本家

株式会社大和屋守口漬総本家
愛知県名古屋市中区栄3丁目7番23号
http://www.moriguchizuke.co.jp/index.html

扶桑町守口大根漬物組合

2.2. かりもり漬(尾張藩)            前へ 次へ 目次

濃尾平野では江戸時代から、夏に瓜が、冬に大根が栽培されていました。特に現在の海部郡一帯は青瓜の産地として有名でした。瓜は高温多湿の気候を好むため、気候条件も瓜の栽培に適していたと言えます。原料が豊富に得られるという条件があったことや、尾張に酒蔵やみりん蔵が多く、酒粕・みりん粕が利用しやすかった環境があり、瓜の奈良漬としてかりもり漬が製造されるようになりました。瓜の漬物で最も重要な工程は収穫直後に「瓜を殺す」といわれる塩漬けの工程です。収穫後、いかにすばやく「ワタ」と呼ばれる種と種を包んでいる綿状の部分を取り除き、塩漬けにすることができるかが漬物の品質を左右します。そのため、瓜の産地の近くが加工する場所として適しており、この地にかりもり漬が根付いたと考えられます。

尾張のかりもり漬が他の瓜の漬物と異なるのは青瓜を使用しているところにあります。他の地域では白瓜の未熟果が漬物に用いられますが、青瓜は白瓜よりも堅く、歯ごたえが強い特徴があります。この歯ごたえを生かすため、製造工程にも細心の注意が払われています。かりもり漬の製造方法はメーカーによって様々ですが、おおよそ以下の工程で製造されています。

  1. 収穫後の瓜をできるだけ早く二つに割り、中のワタを取り除く
  2. 高塩濃度で塩漬けを行う
  3. 水を切り、酒粕につける
  4. 酒粕を変え、何度か漬け替えを行う
  5. 最後にみりん粕と酒粕を合わせた粕でつけ、味を調える

名古屋で漬けられる奈良漬はみりん粕を使用するところが特徴です。守口漬も甘く仕上げていることもあり、漬物を甘く仕上げる文化が見られるようです。

現在もかりもり漬の原料となる青瓜は愛知県が主要な産地ですが、旧来の青瓜の生産地は名古屋のベッドタウンとして宅地化が進みつつあり、生産量は減少傾向が見られます。尾張名古屋に根付いたかりもり漬の食文化を未来につなぐためには、原料となる青瓜も守らなくてはならないということを改めて感じました。

(澤田)

株式会社若菜

<調査協力>
株式会社若菜
愛知県海部郡蟹江町蟹江本町ヤノ割46
http://www.wakana.co.jp/

2.3. 白醤油(尾張藩)            前へ 次へ 目次

日本で醤油が成立したのは平安時代とも言われ、歴史のある調味料です。その中で白醤油は比較的歴史が浅く、その成立は江戸時代後半、1800年頃と言われています。白醤油の発祥については諸説あり、三河国で生まれたという説、尾張国で生まれたという説があります。一方で、金山寺味噌のたまり液が白醤油の起源だとする説などがあり、詳細は不明です。白醤油は、大豆をほとんど使わず、麦と塩を使って作られます。この地域に白醤油文化が成立したのは、大消費地である名古屋が近いことに加え、原料である麦が三河を流れる矢作川流域で栽培され、塩の生産が吉良(現在の西尾市吉良町)で行われていたことが大きいと考えられます。また幕末に、アメリカ合衆国のタウンゼント・ハリスが来日した際、三河の白醤油を使った料理が振舞われたという記録が残っています。

白醤油は先に述べたように、一般の醤油で使われる大豆をほとんど使わずに醸造されています。醸造工程は一般に以下のようになっています。

  1. 小麦と大豆を蒸す
  2. 蒸した小麦と大豆に種麹をつけ、製麹する
  3. 麹に塩水を混ぜ、発酵熟成させる(もろみとなる)
  4. もろみからもろみ液(1番引き)をとり、残った粕に塩水を加え、再び発酵熟成
  5. もろみから再度もろみ液(2番引き)を取り、調合・充填

白醤油は澄んだ薄い琥珀色が特徴です。熟成期間を長くすると風味が増しますが、着色が強く出てしまいます。色と風味がトレードオフの関係にあるため、適切な熟成期間を設定することが品質に大きな影響を与えます。熟成期間は、熟成時の季節を考慮して決められます。白醤油の製造では、一般に醤油製造で行われる加熱処理(火入れ)を行いません。火入れをすると、アミノ酸と糖が反応してメイラード反応がおき、着色してしまうからです。火入れをしないため、白醤油には麹由来の酵素が生きた状態で含まれています。白醤油を漬け込み液として使うと、酵素の力で食材がやわらかくなり、上品な下味をつけることができます。また、一般的な醤油と比べ、色や味が控えめであることから、素材の色や味を生かした料理を作ることが可能です。サトイモやレンコンの白さを生かした煮物作りに最適な調味料です。また卵料理との相性がよく、名古屋コーチンに代表されるような、名古屋の鶏食文化と結びついて、文化として定着したと考えられます。

一方で、愛知県には麦をほとんど使わず大豆のみで作られる「たまり醤油」の文化も根付いています。両極の醤油文化が同じ地域に根付いているのも、愛知における食文化の懐の深さ故のことでしょうか。

(澤田)

<調査協力>

菱太産業株式会社

菱太産業株式会社
名古屋市東区東桜一丁目9番3号 ヒシタ会館
http://www.hishita.co.jp

 

2.4. 八丁味噌(岡崎藩)           前へ 次へ 目次

八丁味噌という名称は、岡崎城から西に八丁離れた八丁村(現在の八帖町)で、東海道沿い(現在の旧東海道。以下同)で二つの味噌醸造所が良質な味噌を造っていたことから名づけられました。八丁味噌を製造している現在の「まるや八丁味噌」「カクキュー」の2社は、江戸時代、東海道沿いに並んで店を構えていました。当時、東海道を旅する人や参勤交代で街道を通る武士が岡崎を通る際、この八丁味噌を買い求めたことから、八丁味噌の名が全国に広まりました。岡崎は物資輸送の中継地点として古くから栄えており、塩や大豆が容易に手に入ったことから、味噌醸造が根付いたと考えられます。八丁味噌は水分が少なく固いため、持ち運びが容易でそのまま食べられるという利点があり、兵糧として利用されていました。徳川家康は八丁味噌の焼き味噌を好んでいたといわれています。また、高温多湿となるこの地域では、発酵が進みやすいため、麦麹や米麹を使わず、この地域の気候風土に合った豆麹を使い、じっくりと熟成を行っています。高温多湿の気候を乗り越えるための工夫が、この地域に豆味噌文化を根付かせた理由のひとつと考えられます。

かつて八丁村であった地域では、先ほど紹介した2社が現在八丁味噌を造っていますが、両社ともおおよそ以下のような製造方法で八丁味噌を造っています。

  1. 大豆を水で洗い、水に浸す
  2. 水を切り、大豆を高温で蒸す
  3. 大豆をつぶして味噌玉を作る
  4. 味噌玉に麹菌を生やして豆麹を作る
  5. 豆麹に塩と水を混ぜて仕込む(水分は少なく調製)
  6. 石を円錐状に積み圧を掛け、二夏二冬(2年以上)熟成させる

今回、まるや八丁味噌、カクキューの2社に取材させていただいた中で、かつて八丁村であった地域で、長年続く伝統製法で造られた豆味噌が八丁味噌であるということが強く伝わってきました。歴史に裏打ちされた八丁味噌の価値がある一方、現在の味噌市場における八丁味噌のシェアは1%未満と極めてわずかです。八丁味噌は他の味噌と比べて苦味と酸味があるのが特徴ですが、こうした特徴が現代人の味覚に必ずしも合わない部分があります。また、八丁味噌は水分が少なく固いため、味噌汁に使う場合は溶けにくく、調理が煩雑になってしまう点もあります。現在では、八丁味噌そのものではなく、八丁味噌と白味噌をブレンドした「赤だし」が商品の主流となっているとのことです。また、八丁味噌の需要を促進するため、味噌ソフトクリームといった新しい商品の開発、岡崎市の新たな名物料理として八丁味噌を使った「まぜめん」の開発なども行われています。世界に目を向けると、和食ブーム、健康ブームに沸くヨーロッパやアメリカでは、近年、八丁味噌の需要が増えてきており、八丁味噌は世界に広まりつつあります。

(澤田)

株式会社まるや八丁味噌

株式会社まるや八丁味噌
愛知県岡崎市八帖町往還通52
http://www.8miso.co.jp/

カクキュー八丁味噌

カクキュー八丁味噌
愛知県岡崎市八帖町字往還通69番地
http://www.kakukyu.jp/

3. 最後に                      前へ     目次

尾張・三河は地理的にも歴史的にも特徴のある地域だと感じます。古くから西と東をつなぐ場所であっただけでなく、海と山をつなぐ場所でもありました。さらにこの地そのものにも力があり、こうした環境が特色のある食文化を生み出したと考えられます。今回取材させていただいたメーカーの方々からは、「伝統を守るために、今できることは何か」を常に考えていらっしゃる姿勢を強く感じました。歴史ある食文化を現代でも、そして未来でも価値のあるものとするため、社会や時代が変化するとともに、伝統もまた、柔軟に変化していかなくてはならないのかもしれません。

(澤田)

 参考資料

『日本地誌』第12巻(愛知県・岐阜県) 日本地誌研究所編 二宮書店 1969
『日本の郷土産業 3 -中部・北陸-』 日本地域社会研究所編 新人物往来社 1975
『平成元年度 愛知県歴史の道調査報告書 III -佐屋街道- 』 愛知県教育委員会編 1989
『守口漬ものがたり:創業者たちの横顔』 田中彰吾 中日出版社 2002
『日本の味 醤油の歴史』 林 玲子, 天野 雅敏 編 吉川弘文館 2005
『名古屋圏の都市地理学』 林上著 風媒社 2016

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